弱者の生きやすい社会を

 中日新聞夕刊の企画「共に生きる~ポスト平成の男女平等論」(1月4日~1月8日)の上野千鶴子さんと荻上チキさんの新春対談から1月8日のコメントの中から一部を紹介します。

 

 「人は、強い人の足は踏めません。介護施設で働く友人が『移設の職員は年寄りをコントロールしたくなる』と話していました。親も子どもを思うようにしたがります。自分が意のままにできる弱者は子供と老人です。圧倒的な権力の非対称のもとで、弱者を思い通りにしたい権力の行使を抑制し続けるプロセスがケアです。私は、ケアの経験は非暴力を学ぶ実践だと思っています。権力はを行使するよりも、行使を抑制する方がはるかに努力が必要です。女は、子どもを育てながら、非暴力を学んできた。その経験に男も参加してほしい。

 かつて強者として自分に立ちはだかった父親が老いて弱者になる。それを自分の意のままにしようとしないでありのままに受け入れる経験を積めば男も変わるでしょう。明日はわが身、ですから。」(上野)

 

「私は、超高齢社会は恵みだと思っています。どんな強者もいずれは必ず弱者になる。サッチャーさんもレーガンさんも認知症になりましたし、安倍さんだっていずれどうなるのか分かりません。

 フェミニズムは女も男のように強者になりたいという思想ではありません。弱者に寄り添ってきた女という経験の中から、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想のことです。自分だけが勝ち残ろうとする自己決定・自己責任のネオリ思想とは相いれません弱者が生きやすい社会は、強者も生きやすいはず。ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいきます。それを受け入れたらいいではありませんか。」(上野)

 

 「あらためて振り返るとこれまで頑張ってきたはずなのに『何だ、この世の中の体たらくは』という情けない思いを持っています。

 女性問題で言うとセクハラや痴漢は問答無用の破廉恥罪なので、突破口としてはやりやすかった。でも、社会の構造をなかなか変えられません。『こんな世の中に誰がした』と詰め寄られたら『非力でした。ごめんなさい』と謝るしかない。でも若い人もあっという間に年齢を取り、後からくるもっと若い世代に詰め寄られるようになるでしょう。

 団塊は困った世代だったかもしれませんが、変えたところも変えられなかったところもある。あとに続くあなたたちはその宿題を背負う責任がある、ということは伝えたいです。」(上野)

 

 「男性からも声を上げる人たちが出ています。観点を変えれば、構造的変化の最中だと言えるかもしれません。次の時代の人たちに対して『自分はこの一歩を踏み出した』と言えるように生きたいと思います。」(荻上)